「稼げる」は嘘じゃない。施工管理者として現場最前線を走り続けるベテランが語る共同エンジニアリングとの絆

建設・プラント業界の最前線を30年以上、走り続けてきた原田実さん。東日本大震災の復旧工事や海外プロジェクトといった困難なミッションを乗り越えてきました。共同エンジニアリングとの出会いから、「現場は職人さんのもの」と語る仕事哲学、そして現場から数々のスカウトを得つつもなお共同エンジニアリングで働き続ける理由までを語ってもらいました。

この記事は約7分で読み終わります。

現場はオーケストラ。施工管理者として指揮棒を振って、プロの演奏者である職人さんを支える

原田 実さん

現場歴30年あまり、数々のタフな現場を強く明るくまとめあげる

入社年:2013年中途入社

現在の業務:火力発電所における設備の整備・メンテナンスおよび関連工事の施工管理業務

休日の過ごし方:子どもと一緒に過ごす

過去の現場経歴:
2013年4月〜 震災に伴う電気設備緊急対策工事(北海道)
2014年5月〜 原子力発電所敷地内の災害支援タンク建設工事(福島)
2019年10月〜 石油・化学プラントの定修工事(千葉・三重など)
2025年3月〜 海外プラント建設プロジェクト(アメリカ)

「稼ぎたい」に応えてくれた元社長との出会いが、すべての始まり

――最初のキャリアはどのような形でスタートしたのでしょうか?

私が社会に出た当時は、いわゆる就職氷河期で、仕事が本当になかった時代でした。高校を卒業して、先輩の紹介で電気工事の会社に入ったのが始まりです。大阪の大手化学会社のプラントで、電気の知識とプラントのノウハウを同時に学びました。

電気工事は、ただ線を繋ぐだけじゃない。配管や設計、時には土木作業や左官作業まで、本当に幅広い業務を担当します。だから飽きなかったのかもしれません。当時は「技術は見て盗め」の時代。負けん気は人一倍あったので、食らいついていきました。面倒見のよい先輩たちに恵まれて、仕事は楽しかったです。

――そこから共同エンジニアリングに入社するまでに、異業種も経験したとか。

違う世界を見てみたくなって、営業職に転職しました。関西では名の知れた年商100億円規模の会社で、年間1億円を売り上げて営業成績トップになったこともあります。でも、給料はほとんど変わらなかった。そこで「やれば報われる」現場の仕事に戻ろうと思い、共同エンジニアリングの面接を受けることになりました。

――面接でのやり取りが、キャリアの大きな転機になったと伺っています。

当時、私はすでに2社から内定をもらっていました。どちらも仕事が途切れることのない安定した会社です。共同エンジニアリングの採面接時にその話をしたら、当時担当だった元社長が「そこはやめて、ぜひうちに来てほしい」と。

私は「どうせ働くなら人より稼ぎたい」と正直に伝えました。すると彼は「しっかり稼いでいただくので、私についてきてください」と即答したのです。何の根拠もなかったけれど、「この人は面白そうだ」と直感し、内定をすべて断って入社を決めました。結果的にその選択が、私のキャリアのすべてを築いてくれました。そして、あのときの「稼いでいただく」という言葉は、嘘ではありませんでした。

入社後も、彼は「営業」、私は「施工管理者」としてしばらくタッグを組む日々が続きました。彼が営業し、新しい取引先が決まると、まず私が先発隊として向かいます。時には難易度の高いプロジェクトもありましたが、そのおかげで今の私の経験値があります。

派遣だからこそ、一流の現場に立てる。300人を束ねた哲学

――技術者派遣という働き方については、当時どのように感じていましたか?

入社してわかったことですが、この働き方には大きなメリットがあります。それは、通常なら入社が難しいような一流企業の現場で働けることです。派遣という立場だからこそ、そういった企業の仕事の進め方、厳格な書類の基準、品質への高い意識を肌で感じることができる。これはものすごく勉強になります。私がこれだけのキャリアを積めたのは、間違いなく共同エンジニアリングがくれたこの環境のおかげです。

――これまでで最も印象に残っているプロジェクトは何でしょうか?

やはり東日本大震災の復旧工事ですね。福島第一原子力発電所の処理水タンクを建設するプロジェクトでしたが、特殊な環境ということもあり過酷を極めました。防護服と全面マスクを装着しての作業は灼熱で、朝3時に朝礼をして、日の出とともに作業を開始する。現場作業が終わるのは昼過ぎですが、私たち施工管理者はその後も工程調整や翌日の準備を行い、限られた時間の中で安全と品質の維持を図りました。

そのような状況で、派遣先の主任さんが調子を崩して現場を去ってしまい、突然私がその後任に抜擢されたのです。派遣の私が、300人を束ねるプロジェクトのトップに立つことになりました。

――300人のトップとして、何を一番大切にしていましたか?

「現場は職人さんたちのものだ」ということです。私たち施工管理者が指揮棒を振っても、プロの演奏者である職人さんたちがいないと音は鳴りません。現場を安全に進め、実際に形にしてくれるのは彼らです。だからこそ、彼らプロの仕事を最大限リスペクトし、どうすれば気持ちよく、そしてスムーズに力を発揮してもらえるかを考えることに徹しました。

各工種のリーダーたちと徹底的にコミュニケーションを取り、信頼関係を築く。そして、現場の流れを把握したら、あとはプロに任せる。この経験から、常に「自分は素人だ」という意識をもつようになりました。今でも現場では、職人さんたちと常に相談しています。その姿勢が、巨大なチームを動かす上で最も重要だと学びました。

「誰と仕事をするか」がすべて。私が共同エンジニアリングにいる理由

――「稼ぐ」という点において、施工管理者という職業や共同エンジニアリングの評価制度をどう見ていますか?

施工管理者は技術職なので、「経験」と「スキル」がすべてです。たとえば、一つの現場をやりきる中で安全管理の知識を深めたり、図面を読み解く力を磨いたりすれば、次の現場ではより高いレベルの仕事を任せてもらえるようになります。そうして積み上げた技術や信頼が評価されることで、単価が上がり、給与にも反映されていく。つまり、自分の努力や成長が、数字として返ってくる仕組みなんです。

それに加え、共同エンジニアリングでは、お客様から評価され、契約が延長されるといった成果が、ダイレクトに給与に反映され、月の単価が上がっていくことも珍しくありません。「やればやっただけ報われる」という実感があるからこそ、タフな現場でも走り続けられるのです。

――現場で他社からのスカウトも数多くあったと思います。それでも共同エンジニアリングに残り続けているのはなぜでしょうか?

第一に、今の環境に私を導き、入社後も挑戦のチャンスを与えてくれた元社長に恩義を感じています。とはいえ、そうした機会を裏側で支え、給料を払い続けてくれたのは共同エンジニアリングです。だから恩返しという意味でも、この会社のために力を尽くしたいと思っています。

――直近では海外プロジェクトにも携わっておられます。

アメリカのプラント建設に携わっています。英語は得意ではないのですが、コミュニケーションの手立てになればと思い日本の飴をたくさん持っていきました。「キャンディあげるから名前教えて」と声をかけたのがきっかけになり、「ヘイ、ハラダ。キャンディ!」と呼ばれるような親密な関係性も築けました。

プロジェクトの中で学んだことは、「伝え方が違うだけで、仕事の基本は日本も海外も一緒」という点です。言葉が通じなくても、作業指示は絵や数字で伝えたり、工程表を1日ごとに分けて配ったりと工夫すれば、問題なく連携できます。そうして働く中で「国や言語は違っても、ものづくりに向き合う気持ちは同じ」ということが実感できた瞬間はうれしかったです。

――これからご自身の経験をどのように活かしていきたいですか?

今年で50歳になります。これまでは自分のために、会社のためにとがむしゃらに走ってきましたが、これからは私が培ってきた経験や現場での勘どころ、人との付き合い方といった技術を、若い世代に伝えていく番だと思っています。共同エンジニアリングが、もっと「稼げる会社」、そして社員が誇りをもてるブランド力のある会社になるように貢献したいですね。

――未来の仲間、特にベテランの方に向けて、メッセージをお願いします。

ベテランが新しい環境に飛び込むとき、一番の壁になるのは「プライド」です。自分の経験に自信を持つことは大切ですが、過去のやり方に固執していては成長が止まってしまう、と私は考えます。自分は素人だという謙虚な気持ちで、素直に新しいことを学べる人なら、どこへ行っても、何歳になっても絶対に成功できます。

共同エンジニアリングには、あなたの経験を正当に評価し、それが報酬としてしっかりと返ってくる環境があります。専任担当によるフォローアップ体制で挑戦を続ける技術者を支えてくれます。自分の腕で道を切り拓き、大きな舞台で力を発揮したい方は、ぜひ挑戦してみてください。

※2025年11月7日時点の記事です